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第一章 再会

Author: 相沢蒼依
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-14 11:52:01

 結婚式場から逃げ出した代償は、想像を遥かに超えていた。

 九条家から即日勘当を宣告され、実家からの一切の支援を断たれた俺は、学生時代に住んでいた安アパートに舞い戻るしかなかった。

 わずかな貯金とスーツケース一つ。それが二十六歳の俺に残されたすべてだった。

 その後の半年は静かで、しかし確実に心を削る日々だった。

 オメガが就職活動をする――その特性は、むしろ不利に働いた。

「オメガなのに匂いがしない」「本当にオメガか?」と疑いの目を向けられ、面接官に不信感を抱かれることも多かった。それでも俺は笑ってごまかし、黙々とバイトを掛け持ちして何とか食い繋いだ。

 普通のオメガに比べてヒートが極めて軽く、体調を崩すことなど滅多になかったのが功を奏した。

 そして今日——全国展開する大手製薬会社『一ノ瀬ライフサイエンス株式会社』が経営する子会社の事務職員として内定をもらうことができた。

 内定通知に記された会社名を見たとき、俺は一瞬だけ息を止めた。

『一ノ瀬ライフサイエンス株式会社』一ノ瀬――その名前を見て、脳裏にあの男の顔が浮かんだ。半年前、結婚式場から逃げ出した俺を追うこともなく、ただ冷たい目で見送った男。

 一ノ瀬智臣。

(……まさか、俺のことなんて覚えてないよな)

 そう思ったところで、胸の奥に小さな不安が生まれた。

 もし、あの検査結果を知っているとしたら。もし、俺が普通のオメガではないことまで知られていたら――。

 けれど、こんな大企業で、しかも数ある子会社のひとつだ。半年前に逃げ出した俺のことなど、もう忘れているに決まっている。

 そう自分に言い聞かせ、俺は内定を受けることにした。

(――今日から社会人だ。しっかりやろう)

 新品のスーツに袖を通し、ネクタイをきっちりと締める。鏡に映る自分は、まだ少し頰がこけているものの、少なくともオメガらしい弱々しさは見えなかった。

 意気揚々と、子会社が入っているビルに向かったはずだったのに——。

「九条湊くん、申し訳ない。急なお話なんだが……」

 人事部の担当者は、気まずそうな顔で切り出した。

「本社に出向してほしい。社長秘書がどうしても必要らしいんだ」

「……本社?」

 その言葉に、胸がざわついた。

 一ノ瀬グループの本社。それはつまり――一ノ瀬智臣がいる場所だ。

「社長秘書って……まさか」

「そう。社長直々のご指名だ」

「……っ」

 心臓が大きく跳ねた。

 嘘だ、そんなはずがない。

 半年前、俺はあの人との結婚から逃げた。俺が普通のオメガではないことを知ってしまったから。

 それなのに今度は自分から、その人のすぐそばへ行けというのか。

「事務職員として、採用されたんじゃなかったんですか? 秘書の経験もありませんし……」

 声が、自分でも分かるほど硬くなった。

 担当者はさらに申し訳なさそうに、一枚の内定通知書を手渡してきた。役職欄に書かれていた文字を見て、俺の背筋が凍った。『CEO秘書』

「社長直々のご指名です。今すぐ本社へ向かってください。受付で名前を言えば、詳細な説明があります」

 こうして俺は、逃げ出したはずの男が頂点に君臨する一ノ瀬グループの本社へと、半ば強制的に向かうことになった。

 タクシーの窓から流れる街並みを眺めながら、胸の内で不穏な予感が膨らんでいく。頭の中では、半年前の結婚式場の控室のことが思い出された。

 俺の目から隠すように置かれた大判の封筒――それは結婚式当日に行われる、最終適合検査の結果なのがすぐに分かった。

 それを隠すように置かれている時点で、嫌な予感がした。震える手で封筒を開けて、中身を確認する。

「これは――」

 どうして、今までヒートが軽かったのか。フェロモンが少ないことで、オメガじゃないのではないかと他人から指摘されたり、心当たりがあった。

「このまま一ノ瀬さんと結婚しても、子どもが望めない可能性があるなら……」

 俺は、物音を立てないように控室から出る。

 少し離れた場所にある新郎の控室から、アルファのフェロモンを感じて胸の奥がざわめく。それを振り切るように、走って結婚式場から逃げ出した。

(……偶然だよね? まさか、俺のことを知った上で……?)

 エントランスをくぐった瞬間、冷えた空気とともに、微かに感じる懐かしい気配。フェロモンがほとんど出ない俺でも、はっきりと認識できる強烈なアルファの存在感。

 最上階へ向かうエレベーターの中で、俺の体に異変が訪れ始めた。心臓の鼓動が速くなり、首筋が熱を帯びる。普段は決して起こらない強烈な疼きに、冷汗が出る。

(……嘘だろ。まだ近くにもいないのに)

 扉が開き、重厚な執務室の前に立ったときには、すでに膝がわずかに震えていた。

「失礼します。九条湊様をお連れしました」

 スタッフの声とともに、ゆっくりと扉が開かれる。窓を背に、漆黒のスーツを完璧に着こなした男が静かに立っていた。

 一ノ瀬智臣――見合い写真で見たよりも、実際の顔はとても冷たく、美しかった。眼鏡の奥の鋭い視線が、俺を真正面から捉える。

 その瞬間、俺の体内で何かが決壊した。熱が一気に広がり、息が乱れる。

 智臣の唇が、わずかに弧を描いた。

「今日から君が私の秘書だ」

「……はい」

(どうして……どうして俺なんだ?)

 智臣は、机の上の書類を閉じる。

「仕事についての詳しい話だが――」

 低く、静かな声が響いた。その声だけで、俺の理性が溶けていくのを感じた。

 これは、偶然などではない。智臣は、すべてを知った上で俺をここに呼んだのだ——。

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